Kakadu > 州のあらまし > 州のあらまし > 使用履歴

アボリジニの歴史
世界最古の文化が今も息づくノーザン・テリトリーの歴史は、様々な伝統や生活の織りなす織物のようなものです。そのすべてが岩だらけの大地やモンスーン性の森、砂漠の砂を背景に営まれているのです。
アボリジニの社会は世界最長の歴史を誇ります。 アーネム・ランドの先住民の集落には5万年以上の歴史があり、現地のヨルング族は現在もほぼ伝統的な生活スタイルを守っています。 イギリス人が入植を開始した1788年当時には少なくとも250種の言語を話す30万人ものアボリジニがオーストラリアで暮らしていました。
ノーザン・テリトリーにはそのうち80以上の言語をもつ先住民の集団が暮らしており、およそ40の言語は現在でも話されています。 言語を同じくする集団で大きいものとしては、レッド・センターに住むアレンテ族(Arrernte)、ピッチャンチャジャーラ族(Pitjantjatjara)、ワルピリ族(Warlpiri)、アーネム・ランドに住むヨルング族(Yolngu)などがあります。 ノーザン・テリトリーのおよそ50パーセントがアボリジニの所有地です。
第2次世界大戦
ダーウィンは第2次世界大戦の戦場となったオーストラリアで唯一の土地です。 ここには真珠湾よりたくさんの爆弾が落とされました。 1942年2月19日には、その後2年間64回におよぶ日本軍の爆撃のうち、最初にして最大の爆撃があり、多くの一般市民を含む243人もの犠牲者を出し、町は壊滅的な打撃を受けました。 ダーウィンは今日においても引き続き、主要な軍の駐屯地です。
ダーウィンにある第2次大戦の主な史跡には、埠頭指定地区(Wharf Precinct)第2次世界大戦石油備蓄用トンネル群(WWII oil storage tunnels)、, 建国200年祭記念公園(Bicentennial Park)、イースト・ポイント・ミリタリー博物館(East Point Military Museum)、航空歴史センター(Aviation Heritage Centre)、マイリー・ポイントにあるバーネット・ハウス(Burnett House)などがあります。 戦跡は ティウィ諸島やアデレード・リバー、キャサリン、アリス・スプリングス, でも見学することができます。
ヨーロッパ人の探検と入植
触したのは、1705年のオランダ人とティウィ諸島人の接触が最初でした。 1824年にはイギリス人がノーザン・テリトリーに初めてヨーロッパ人入植地を設営したのは、ティウィ諸島の2つの島のうちの1つ、メルヴィル島のフォート・ダンダスでした。 しかしその場所は5年後には放棄されました。
ダーウィン湾は1839年にビーグル号の船長ジョン・ロート・ストークスによって発見されました。彼は後に以前同じ船に乗っていた友人チャールズ・ダーウィンの名にちなんで、この地にその名をつけました。 ダーウィンへの入植は1869年に始まりました。 1871年にはアデレードとダーウィンの間に敷かれた 大陸横断電信線の中継基地としてアリス・スプリングスが開かれました。 電信線は1872年に完成してオーストラリアを世界とつなぎ、それによってノーザン・テリトリーの開拓がこれまでになく進みました。
マカサーンとの交易
インドネシア、スラウェシ島出身のマカサーンと呼ばれるナマコ採りの人々が、数世紀にわたってオーストラリア北部の海岸地帯にナマコを採集するために渡ってきました。 ナマコはすぐれた薬効があるために薬として調合され、媚薬としての効能があると信じられていました。
マカサーンたちは何世紀もの間、アーネム・ランドのヨルング族などノーザン・テリトリーのアボリジニと交易を行い、そこで得た品物を中国南部の市場で売りさばいていました。 これは、オーストラリア本土と近隣アジア諸国間における最初の交易記録です。 オーストラリア北部の人々はこの交易によって言語、芸術、経済、遺伝などに影響を受けました。




